君子三楽

        采配の天才と謳われるファーベルク伯爵の元で初めての任務についたときの衝撃は、今もはっきりと覚えている。


        優秀な軍師を父に持つファーベルク伯爵も申し分ない才能の持ち主で、戦をさせれば右に出る者はいない―—という噂だったのだが、十数年前に大規模な都市間抗争が集結してからはさっぱり出る幕がなくなったらしい。竜の血を飲んだ代わりに感情を失ったのだ、と囁かれるファーベルク伯爵は、功績こそ優れていたものの一癖も二癖もあるその性格が災いしてお偉方とは馬が合わず、今は私が所属する小さな街の統括役に就任したのは、数年前のこと。

        新米の私がファーベルク伯爵と顔を合わせられる機会は殆ど無かったが、人間性に難ありという情報に反して、彼の悪い噂を耳にしたことは一度もなかった。
        だから、今回の任務はいつも以上に楽にこなせるのだと思っていた。


        ほんの、数時間前までは。



    ***



    「敵が、降伏を申し出たいそうです――」


        肩に薄く積もった雪を払いながら、ゆっくりと振り向いた男―—ファーベルク伯爵と目が合った瞬間、私の背筋に得体の知れない寒気が走った。


    「我らの勝利は明らかです、伯爵」


        戦いの経験がありそうな者などほんの一握り、農耕器具を改良したような間に合わせの武器しか持たない小さな村が相手だというのに、彼は手を抜こうとはしなかった。
        軍事都市を相手にする時と同じ装備の、特別な訓練を受けた兵士を十数名。魔術師からなる回復部隊をいくつかと、治安維持を生業とする兵士を数名、ファーベルク伯爵は都市から引っ張ってきていた。
        最前列に配置した兵士達には長い槍を持たせ、その後ろには弓を携えた兵を置く。彼らの攻撃を掻い潜り本陣目掛けて突撃してくる輩には、魔術師が魔法で応戦する。

    「死人は出すな」

        はっ、と短い返事を返した者達は、私も含めて、誰も死ぬなという意味だと解釈していた。


    「一人でも殺した者は、生きて街へは帰れぬものと思え」


        皆が皆、返事に詰まった。空気を飲み込む鈍い音が、耳の奥に響く。



    「良いな」



        地の底から届いてくるような、静かで深い声が追い打ちをかけてくる。
        結果、私たちも苦戦を強いられることとなった。手加減をしなければならないが、相手は決死の覚悟で迫ってくる。一歩間違えば、命はない。装備と呼ぶべき装備を揃えていない、農民か賊か分からない輩が負傷するたびに、数人がかりで救護所まで運んでいく。

        だから、どこからどう見ても戦人ではない男が泣きそうな顔で降伏を申し出た時には、正直ほっとした。

    「降伏」


        薄い微笑を張り付かせたファーベルク伯爵の唇が開いて、白い顔に真紅の亀裂を刻んでいく。私が彼の笑顔を見たのは、この時が初めてであったと記憶している。
        私と歳が変わらないように見えるが、ファーベルク伯爵は十数年前の抗争に参加しているのだから、少なくとも十歳は年上のはずである。


    「クレヴァー卿」


        頭の中から直接響いてくるような、不思議な声と共に伯爵が顔をあげた。


    「疲れた顔をしている」
    「い、いえ、そのようなことは――」
    「もう良い」


        つまり、もう用済みだという意味だと私は即座に理解した。
        無条件降伏、というのも一つの立派な条件だ。そう言い残して、しなやかな動きで踵を返したファーベルク伯爵の後を追おうとした瞬間、


    「――ぎゃっ」


    うっすらと雪に埋もれた下草に足を取られて前につんのめってしまった。子供みたいな悲鳴を上げて突然倒れた私に、ファーベルク伯爵がぴたりと歩みを止めて振り返ったのが分かったが、恐ろしくて顔をあげられない。


    「あ、あの、敵方にお伝えすることがあれば伝令を承ります」
    「伝令」
    「こ、降伏の条件、とか――」


        考えるよりも先に口が勝手に動いていた。伯爵に提案するなんて、身の程知らずにも程がある。募穴を掘った。いや、広げてしまったのかもしれないが。


    「そんなものはない」
    「えっ」
    「強いて言うなら無条件だ」


        無条件。
        私が伯爵の言葉の意味を飲み込むより早く、


    「クレヴァー卿」


    と彼は静かな声で呟いた。


        ファーベルク伯爵は、重要な話をするときに必ず相手の名を呼ぶ癖がある。口調を変えず表情も動かさず、唐突に相手の名前を呼ぶものだから、彼と話をすると緊張ばかりして気疲れする、という人間も少なくない。
        私自身は、立場を気にするあまり実のない話をする貴族よりずっと、伯爵は信頼できる人間だと思っているのだが。


    「はい」


        私は、そっと顔を上げた。
        刹那、ファーベルク伯爵の銀色の瞳が私の双眸に突き刺さった。


    「俺は、お前を伝令にした覚えはない」
    「は」
    「権利の安売りをするな。——特に、こういう職に就いているならなおさらだ」


        その瞬間、私の内に闘争心にも似た感情がふっと湧き上がってきた。どういうわけかは分からない。とにかく、ファーベルク伯爵の前で膝をついているという行為自体が、彼に対するこの上ない無礼に思えて、私は即座に立ち上がった。
        美しい色彩を全て白と黒に置き換えたような凛とした髪色の向こうで光る伯爵の眼光から、冷たい光が消えていることに気がついたのはその時だ。


    「人脈、策略——人が人を支配する時、最初に見せる感情は優しさだ」
    「優しさ、ですか」
    「あの村も同じだ」



        俺の支配下に置かれたら、ひどい扱いを受けるという根も葉もない噂が立った。時同じくして、大量の金と食料を携えた謎の一団が村を訪れ、甘い言葉を囁いた。


    「俺達が、あの男からお前たちを守ってやるとな」
    「あの男、というのはつまり、伯爵のこと――ですか」
    「どうやら俺は、第一印象が酷く良くないらしい」
    「それで、どうなったのです」


        明らかに否定を求めるような目をしたファーベルク伯爵に、曖昧な笑顔を向けるが早いか私はすかさず先を促した。


    「村人から土地を奪い金目の物を巻き上げ、村を小さな砦にした。―—数ヶ月前、町外れの倉庫を荒らした賊が、行き場に迷った挙句時間稼ぎに村を使ったというわけだ」
    「なっ―—そうと分かっているのに、何故奴らを」
    「それが、俺の役目だからだ」

        そう言うと、ファーベルク伯爵はゆっくりと村へ向けて歩き始めた。

    「あの男たちも、俺の街で生きる者。上に立つ者には、彼らを守る使命がある」
    「いや―—ですがあの者どもは賊です、伯爵」
    「俺には許されない言い訳だ。それに、彼らは曲がりなりにも俺の部隊と対峙したのだ。自らの行いを悔い改める、きっかけくらいにはなっただろう」



    ***



        小さな村にささやかな平穏が戻ったのは、小さな花々が顔を見せる季節になってからのこと。


    「村の復興に賊の更生、どうしてあんなに上手くいったのか、私自身よく把握できていないのですが」


        私はファーベルク伯爵と共に夜の見回りをしながら、ずっと首を傾げていた。少し前なら、伯爵とともに見回りをすると聞いただけで卒倒しそうになっていただろう。


    「知らん」
    「あんなに血の気盛んなのが、同じ街にいたなんて驚きでした。精霊討伐があんなに骨の折れる仕事だったなんて……」
    「そうか」
    「でも、妙に楽しかったです。彼ら、精霊のねぐらや薬草の知識が幅広くて、勉強にもなりました」
    「ほう」
    「いつの間に、彼らの心を変えたんです? もしかして伯爵、本当に竜の血を浴びた魔術師……とか」


        その瞬間、ファーベルク伯爵は片眉を釣り上げてなんとも言えない表情を浮かべた。


    「勿体無い」
    「はい?」
    「非常に、勿体無いと言ったんだ」


        どうも、ファーベルク伯爵は口数が少なすぎていけない。これでも、随分増えた方だという気はしているが、それでもやはり少なすぎる。
        なんの前触れもなく、わけの分からない行動を取る伯爵についていくのは大変だが、彼の行動の意味はしばらくすると必ず理解できるのだ。まるで何かの謎かけみたいに、的確にヒントを与えながらも我が道を行く。伯爵はそういう人間だ。


        だから、伯爵と話をしていると、いつも自分と向き合っているような心持ちになる。


        私は、何を考えて生きているのか。
        私には、何が出来るのか。


        ファーベルク伯爵に質問をしていたはずなのに、いつの間にか、主語が『伯爵』から『私』に入れ替わっているのだ。次こそは、切り替わる瞬間をとらえてやろうと心に決めても結果は毎回同じである。


        きっと私は、自分が知りたいことをファーベルク伯爵に求めているのだ。


        私に、出来ることなどあるのでしょうか。
        地位も名誉も権力もない。私は、何を考えて生きていくべきでしょうか―—と。その答えは、伯爵の目にはっきりとした輪郭を持った形で映っている。だから、彼は的確な答えを返すのだ。目に見えないものを指差しながら、あれがお前の探しているものだ、と説かれた私は、結局自分で自分の質問と向き合うしかなくなってしまう。

        こうして考え続けていれば、ファーベルク伯爵が見回りや精霊討伐といった仕事に私を同行させる理由も、厄介事——のように見える、例えば例の賊の面倒を見る仕事など―—を私に託すことが多い理由も、いつか分かるようになるのだろうか。


        そして、きっと今も、伯爵はヒントを与え続けている。


    「お前にしか出来ない仕事だ」
    「私に出来る仕事など、伯爵だって出来るでしょう。——もしやとは思いますが、面倒な仕事だからって押し付けてるんじゃないでしょうね」
    「それも一理ある」


        目を見開いて言葉を失った私の前で、伯爵は楽しそうに笑ってから

    「冗談だ」

    と真顔で付け加えた。

    「伯爵、そこは笑顔を浮かべたままでよろしいかと」
    「こうか」
    「今じゃありません、冗談だと宣言して相手の反応を見終えるまでの話です」
    「ふむ」


        滅多なことでは迷わない伯爵だが、たまに、本当におかしなことをする。人付き合いが苦手なのか、噂通り竜の血を飲んで感情を失ったのかは分からないが、どちらにせよ不可能などなさそうに見える伯爵が人間らしい顔をするのはこういう時くらいしかない。私や他の人間と、ファーベルク伯爵の間にある見えない壁がすうっと溶けていくこの瞬間を、私も、また彼を慕う街の者達もひそかに楽しみにしているのだ。


        しばらくじっと黙りこんでから、伯爵は無邪気な笑みを浮かべた。


    「俺はこういう人間だから、お前のような者がいると助かるのだ」
    「はい?」

        ――生憎、伯爵の意図を、ひいては私が私自身のことを理解できるようになるためには、もう少し時間が必要らしかった。


    ないものねだりと、適材適所。人の素敵なところを見つけて伸ばす事ができるのも、一種の才能だと思います。
    タイトルは、ことわざ『君子に三楽あり』より。『徳の高い優れた人』こと君子の三つの楽しみは

    1.   両親と兄弟姉妹が健在であること
    2.   世の中に恥じることのない正しい心を持つこと
    3.   優れた人材を教育すること

    だそうですよ。

    140字SSのお題として『無条件降伏』と出たので140字SSにチャレンジした結果がこれです。140字で世界を描ける人、羨ましいですという、ないものねだりをする神無月の最終日。





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